column5 2020


 

2020.02.17 

 

 

★ タイミャンマーにて瞑想修行

 


 

 タイの Wat Tam Wua Forest Monastery とミャンマーの Chanmyay Yeiktha Meditation Center の瞑想道場に滞在した個人的な体験談です。タイとミャンマーの瞑想についての比較論評ではありません

 

 

 

 ・ 立地 

 

 タムウアは、 タイ北部、パーイから車で約2時間の郊外、都会の喧騒から離れた自然豊かな森の中、広大な敷地は開放感があり、鳥の鳴き声山のこだましか聞こえない静けさ・・ 瞑想にはうってつけの場所にある。ただ山奥なので蚊や虫が多い、蚊帳もないのがちょっと難点か...。施設にも備えられているが、虫避けクリームを持っていった方がよいだろう

 

 チェンマイからもメーホソン行きのバンで4時間、クネクネ山道が嘔吐街道と言われる位、乗り物に弱い人にはかなり辛い・・ 個人的にはパーイで1泊してから行きたい。

 

 反対にチャンミーは、市内にあり、ヤンゴンのランドマーク、スーレーパゴダから市バスで30分ほどインヤー湖のちょい北にある。幹線道路に面していて車の走行音クラクションが聞こえ、静寂とは言えない環境で、瞑想中に音に敏感になる人にはちょっと厳しいかもしれない

 

 アクセスが楽なのと蚊が多くない、瞑想ホールにも宿舎にも蚊帳があるので、デング熱キャリアの自分にはとても助かる

 

 

  

・ 宿舎

 

 タムウアには、バンガローの個室とドミトリーがあるが、基本女性は個室の方へ男性はドミをあてがわれる、ただ人が少なければ男性でも個室に入れる。2階建の雑居棟は、床にマットを敷く和風スタイルで、両階合わせれば24人位は泊まれるだろう。朝晩はかなり冷える、マット毛布を重ねて寒さを凌ぐことになる

 

 チャンミーは個室のみで9室ある。室内にはベッドが二つ、込み合えば相部屋になるかもしれないが、基本的には単独で使える。ただ上部に通気用の網戸があり、隣室の音や光が入るので、常に配慮が必要になる

 

  

 

 

・ 食事

 

 タムウアは淡泊な味付けのヴィーガン食のみで、フルーツも時々あり、自分には合うメニューであった。メニューはだいたい似たようなものであったが、タイ齋食の青菜の炒め物は本当に美味しく頂けた。仏教戒律では、正午以降は何も食さないのであるが、こちらはティータイムでコーヒーを飲めるのが助かった

 

 

 チャンミーは、ベジタリアンとノンベジタリアンの選択ができる。ノンベジは、鶏肉や卵の煮物炒め物がでる、自分は卵を食べたかったのでノンベジを選んだ。ミャンマー料理は総じて油っこい、同期に入ったチェコ人が最初ノンベジ卓についていたが、腹を下したようで、粥食にしてもらった後ベジ食に移っていった。またデザートもあり、隔日でアイスクリームがでる。正午以降は、お茶コーヒー類を飲めないのであるが、ジュースタイムがあってコーラやファンタを飲みことができる

 

 

 

 

・ 規則

 

 仏教の瞑想であるヴィパサナには、仏教の戒律が課される。タムウアもチャンミーも、僧院であるので、もちろんその戒律に従うことになる

 

 大宇宙は、陰陽、一対の両極で成り立つ。仏教にもこの法則があり、陽(積極的)と陰 (消極的)の規則がある

 

 陰側で、してはいけないこと。  1. 殺したり、残酷な行為をしてはいけない。 2. 盗んではいけない。 3. 不品行な性行為をしてはいけない。 4. 嘘をついてはいけない。 5. 麻薬や酒、その他何であれ精神と肉体に毒となるものに酔ってはいけない。

 

  陽側で、行わねばならないもの。 1. 正しい理解 (正見)  2. 正しい目的、または思考 (正思惟)   3. 正しい言葉(正語)   4. 正しい行為(正行)   5. 正しい生業、または仕事 (正業)   6. 正しい努力(正精進)   7. 正しい気づき(正念)   8. 正しい集中(正定)

 

 

 これらの戒律と「聖なる沈黙(Noble Silence)」が滞在中のルールである。沈黙とは、言語・非言語を問わず、一切のコミュニケーションを断つことを指す。会話はもちろん、ジェスチャーや目くばせも許されない。身体接触もしてはいけない。唯一許されるのは、指導僧との瞑想に関する質疑のみである

 

 ちなみにチャンミーでは登録時に、所持金やスマホなど全ての電子機器を預けることになる。宗教ではないと宣言しているゴエンカの施設でも、仏教ルールが、「五つの戒律」と「聖なる沈黙」として定めらている。「五つの戒律(Five Precepts)」とは、1. いかなる生き物も殺さない、2. 盗みを働かない、3. いかなる性行為も行わない、4. 嘘をつかない、5. 酒や麻薬などを摂取しないことを指す。これらはシーラ(道徳律)と呼ばれる、つまりゴエンカも宗教戒律を課す仏教の一宗派といえなくはない

 

 

 ところでミャンマーには、多くの瞑想センターがあるが、瞑想と善行(利他行)とをセットにして修行するユニークなところがある。そこは、ただ座るだけの瞑想では、ダンマを得ることはできない、正しい行いで清められた精神マインドが瞑想成就に導くという教えのもと、カルカッタのマザーハウスのように、病気の人老齢者身寄りのない人のシェルターをつくり、ヨギが奉仕ボランティアと瞑想をするというセンターであった。僅かの手伝いしかできなかったが、SEVA(奉仕)を修行のベースとする*SSPNを思い出し、改めて利他行の素晴らしさを感じた

 

 瞑想道場には必ず清掃タイムがあるが、共有スペースの清掃を熱心にしてるのはたいていは日本人である。利他行がある意味一番向いているのは日本人だろうか…   

 

 

* Sri Sathya Sai Prashanthi Nilayan  プッタパルティのサイババアシュラム 

 

※ タバワ瞑想センター    https://www.thabarwa.org/ 

   

 

 

 

・ スケジュール

 

 

 ◎ タムウア 

 

5:00     起床 部屋で詠唱(chanting) 瞑想 

6:30        僧侶達へのお供え

7:00         朝 食

8:00       説法講話と瞑想

10:30      僧侶達へのお供え

11:00         昼 食

13:00       講話と瞑想

16:00        清掃タイム

17:00    コーヒー、紅茶 ティー&リラックスタイム

18:00       詠唱と瞑想

20:00      自室での瞑想

22:00       就 寝

 

 実際のところ5時に起きて瞑想する人は誰一人いなかった、6時半のお供えに合わせ起きるものがほとんどで、私は誰もいない静かな庭で站椿をする日々であった

 

 お供えというのは、寺に寄進された食べ物を男性ヨギたちが、僧侶の托鉢椀に供えるセレモニーで、この後に食事が始まる。僧侶に接してはいけない女性らは後ろに控えてるだけなので、遅れて来ても素知らぬ顔をしていればよいが、男は恭しく食べ物を運ぶ仕事があるので遅刻はできない。一応この儀式に参加しないと食事はできないことになってる

 

 詠唱はパーリ語のお経で、英字で書かれた冊子を貸してもらえるが、タイ人の参加者を除くほとんどの外国人は居眠りをしている

 

 夜8時に終了、部屋に戻り洗濯など身の回りの片付けなどして、10時に消灯する。フルに頑張っても瞑想時間は6時間程度だが、ホールに集合しての瞑想なので初心者でもそれに合わせていればよく、体験道場としては十分であると思う

 

 滞在期間は、3-10日までの短期で、運営サポートのボランティアなど特別な事情がなければ長期滞在は許されない

 

 

 

 ◎ チャンミー

 

4:00      起 床

4:30     瞑 想 1時間

5:30     朝 食

6:30    清掃タイム

7:00     瞑 想 3時間半

10:30     昼 食

11:30      休 息

12:00    瞑 想 4時間

16:00   ジュースタイム

16:30    瞑 想 5時間

21:30     就 寝

 

 所定の瞑想時間は、13時間半あるが、この時間にホールで瞑想をしてもよし、洗濯などしてもよし、自らの自由意志で修行に励むことになる。瞑想ホールは、24時間開いてるので、起床前からも就寝以降も頑張れば10時間以上でもできるが、実際は身心とも疲れてくるので、私自身は、歩行瞑想3時間半、座禅瞑想4時間半、合わせて8時間程度を行っていた。タムウアに比べれば、こちらの方が本格的に修行ができる環境にあるが、指導僧によるインタビューもあるといえ自身でペース配分を調えて行うので、ある程度の経験がないと難しいかもしれない

 

 滞在期間は、最低10日以上、短期の滞在は許されない、指導僧(サヤド)の推挙があれば、瞑想ヴィザの取得も可能で、数ヶ月に渡る滞在も可能である

 

 

 

 

・ 瞑想方法

 

 タムウアでは、細かい指導は行われない。ヴィパサナではあるが、ベースの観察ポイントも明示されない、今の身体の感覚や心の様子を観察しなさいという位で、わからない点は個々人が質問する伸びやかなスタイルである。初心者は、30分もじっと座ってられない、座り続ける我慢を養うには先ずはこれでもよいのだろう

 

 18才で東福寺別院の参禅会に通い始め、その後も意拳椿功~チャクラ瞑想と40年超・・・ 不動の姿勢をとるのには慣れている。微動だにせず座れるだけでも多年の経験が役に立つ。瞑想に競争心は不要であるが、頑張っている人がいれば周りも連られるので雰囲気が締まる。まあ内面は、ヴィパサナではない瞑想をしている時もあるが、外観からわかることはない

 

 瞑想のやり方にも適不適がある、限界値を振りきれば二も三もない只一の領域があるだろうが、凡人にはいたって難しい。ヴィパサナは感覚過敏になりどうも神経が衰弱する感じになる、チャクラ瞑想のエネルギーが増す感じとは真逆である。解脱への階悌は生半可な修行では難しい・・修行僧でもないので解脱を求める信心まではない。「自性清浄」が修練の本意であり、瞑想もその延長である。ヴィパサナだけに偏することなくサマタも手段の一つとして用いることにどうして抵抗があるだろうか、ただ只実践することだけが修行の目的でもある。無私利他の精神を失わずコツコツと虚心に続ければいつの日か自然法爾に至れるだろうか …

  

 歩行瞑想は、僧侶を先頭に広い庭を散歩する感じで、草木の緑に癒される。歩き方は自然にゆったりとで、別段特別な注意点などない、ほんとうにゆっくりとした散歩なので、足の疲れを取り気分転換にはとても良いものであった

 

 ヴィパサナには珍しく仰向きで寝て、足先から頭までスキャンする瞑想があった、これはほぼヨガのシャバアサナであった・・


 

 

 チャンミーには、月水金に指導僧(サヤド)に進捗報告をするインタビューがあった、カタコトではあるが日本語の通訳さんがボランティアで来てくれるありがたいものである。ヴィパサナ瞑想は10日間コースにて既に経験していたが、それはゴエンカ式のヴィパサナでチャンミーとは異なるものだった。そのことを知らず最初のインタビューで呼吸を観察するアナパーナをしていると言ってしまい、それはサマタ瞑想でヴィパサナではない、腹部の膨らみ縮みを観察するように指示された。またスリランカの僧侶に学んだ慈悲の瞑想もサマタだから不要と説明された。それでサマタの先入観を持たれてしまい、チャンミーサヤドの小冊子に書かれた記述に則ったことを言ってもそれはサマタだと言われる始末で、最後までヴィパサナをやりなさいと注意を受けることになった。また英語がわかるなら、毎日執務室に英語の講話テープを聞きに来るように言われ、それを何とか言い訳して逃れたことで、サヤドの心象を悪くしてしまったのもあっただろう

 

 

 観察洞察の瞑想ヴィパサナでも、やり方はいろいろあり、いくつか体験して自分に合うものを見つけるのがよい。主流はゴエンカ式とマハシ式であるが、タムウアはサマタ瞑想を含むゴエンカに近く、チャンミーは、マハシ・・心と体の今ある状態を断続的に観察するやり方で、日常のあらゆる作務にも観察を求められる。ただ腹部の観察もサマタだとされ、ブッダ直伝の瞑想と言われるヴィパサナも、空白の期間があり、何が本当であるかは誰にもわからない。武術でもそうだが、伝承者の個性時代性で方式の変化があるのは当然なので、自身の適性に合うものを求めるほかはなく、これこそが正宗正統で他はすべて間違いという偏屈に固まらないのがよい、そもそも仏陀の悟り解脱は、自我(エゴ)からの解放、彼我のない広大無辺の世界へ行くことなのだから・・

 

 チャンミーの歩行瞑想は、足を引き上げ前に進め床に降ろす・・この一歩を微細に観察する。早め少し早めゆっくり極めてゆっくりと・・速度を変えながら3-60分行った、LIFT - STEP - DROP と足を進める方式が意拳摩擦歩の " 抜 - 進 -  " とリンクし、踵ではなく足裏着地も摩擦歩と同じであり、ほぼ全て摩擦歩でやることができた、ヴィパサナでは行わない退歩や継歩、一進半退歩など種々の練習ができた。摩擦歩だけをこれほど長時間することも30年ぶりで、初心に戻った練習ができたことは本当に良かった

 

 

 瞑想の方式が違っていてもゴールは同じであろう。仏教の瞑想のみが解脱に至る道ではない、自我(エゴ)の執着からの解放なら、ラマナマハルシの「真我探求」の方が具体性がある、ティルバンナマライのアルナチャラ山の強烈な磁場も瞑想成就を後押しするだろう。解脱への道はどのような瞑想をどう行うかが重要であるが、どの場所で行うかも重要である、なぜなら場の空気感磁場が修行を導くからだ。かつてそれを求め、比叡高野四国遍路を完歩したが、空海が瞑想した室戸岬など空気感の良い所が幾つかあった、それを超える強い磁場を感じたのが、チベットのニャラム、ガンジス上流のガンゴトリやアルナチャラ山だ。経験があり解脱への強い思いがある人なら、何かと邪魔が入る道場よりもこれらの地でたった一人で修行を行う方が成就の道が早いだろう。もちろんそれを行うのは相応のサマディの力が必要になる、今の自分のレベルでは、悟りや解脱よりもその前段の三昧(サマディ)の力をつけることが先要であると考えている


 

 


・ ヴィパサナとサマタ瞑想

 

  ヴィパサナ・・ 観察の瞑想 心と体に不断に現れる全ての感覚を見つめ気づき(サティ)を獲得する 一切の意識的な制御を加えずただひたすらに観察を続ける  NO WORK  NO CONTROL  不断に現れる感覚や妄念に対して何らの作業も行わない、雑念を消す止める作業も行わない、ただジッとそれらを客観的に見つめ続ける無念無為の忍耐が必要である  

 

 サマタ・・ 凝念の瞑想  呼吸や意識の制御など何らかの意志作為があるものはサマタである 各種の呼吸法 慈悲の瞑想 経文マントラの詠唱 マンダラ瞑想 站椿(立禅) 等 意念制御を用いるものは全てサマタであるが、そのサマタでも想念だけの  MIND WORK  の瞑想と  PHYSICAL & MIND WORK  の瞑想がある。前者には阿字観、数息観、白隠の軟蘇の法などで、後者にはチャクラ瞑想や意拳椿功が当てはまる。私自身は身心一如の鍛錬を通じて、「見神悟道」の境地を探索しているので、ヴィパサナの道場においてもそのスタンスは変わらない

 

 ヨガの瞑想者は、他の瞑想にも寛容だが、ヴィパサナは、排他的で、他の瞑想に否定的な感じの人が多い。ゴエンカ式道場ではその他の瞑想はおろか軽い運動ストレッチも全て禁止される。チャンミーにおいても一切の運動は禁止である。タムウアは若干ゆるい感じではあるが、まるで身体を動かすことは悪いこと、身体そのものを忌み嫌っているかのようだ。早く動けば観察が切れるという理由があるが、常にスローに動くように指示される、それはあたかも病人のように弱弱しく立ち歩き座ることである  

 

 それについてふと思い出したのが、仏教では人間を「臭皮袋」と呼び、糞尿唾液など汚い臭いものが詰まったのが身体で、その体に執着しているのが自我である、我欲我執の迷妄から脱して、絶対真理の彼岸へ向かうにはそんな臭皮袋を捨離すべしとの教えがある。ヴィパサナでは、座るかヨチヨチ歩くかしか許されないのは、わざと身体を弱らせて、その体にしがみつく自我を脱落させようとしているのだろうか。。仏典でもこう記されている ...

 

 

勝利の経  Vijaya suttaṃ (Sutta nipāta I_11)

 

Dipādakoyaṃ asuci, duggandho parihīrati;   Nānākuṇapa paripūro, vissavanto tato tato.  不浄で、悪臭を放つ、この身体を人間が守っている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。

 

Yathā idaṃ tathā etaṃ, yathā etaṃ tathā idaṃ;   Ajjhattañ ca bahiddhā ca, kāye chandaṃ virājaye. 〈かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう〉と、自分の身体に対する欲をも、他人の身体に対する欲をも、離れるべきである

 

 ※ 骸骨のように痩せ細った仏陀の瞑想

 

 

 チャンミー滞在時にも、日一日と体が弱ってくるのを感じた、これはまずいと思い瞑想後疲れて部屋に戻ったあと、腕立て伏せをするルーチンを課した。背中や腰が痛く早く横になりたい時も、体力を維持するだけの運動は続けた 


 

 


・ 所感 

 

 私が仏教に興味を持ったのは、剣豪たちの剣禅一如の逸話や叡山の回峰行について、身心の錬成で  *「見神悟道」の境地に至れることを知ったからである。日本の初期仏教は修験を融合したもので、神道の要素を含む仏教であり、テラワーダ仏教とは別物だ。神道には教祖も経典もない、自然への畏敬尊崇から神を見出したプリミティブな信仰から始まる、人間そのものが自然と一体化することで神人合一の境地を目指すもので、身心の鍛錬がその道筋となる

 

 チャクラ瞑想のグルジサドゥーババは、山を指さし「シバ神」、川を指さし「ガンガ女神」と言い、大いなる自然は全て神であると教えてくれた、この教えは自分の心に大いに響いた、神道こそが自分、いや日本人全ての魂に伝承されているのだと思えた

 

 仏教国タイでもミャンマーでもボッタくるタクシーは少なくはない、災害で治安が不全になればそこかしこで略奪が始まる、男子は生涯で一度は出家するという仏の教えが根付いてる国でだ。日本はどうだ、卑しい汚い行為は忌み嫌われる、「誰も見てなくてもお天道様は見てる」「困ったときはお互い様」これらの精神は仏教ではなく、神道の祓い清めから来ているのである

 

 ババはインド人に生まれたらヒンドゥー教徒である、それは民族宗教だからで、数千年の歴史で育まれたものはその民族の魂に宿るものだと言った。日本人であるならそれは神道にほかならないのだ

 

 

 近年インドではRSSを筆頭に、イスラム西洋文化に侵蝕されたヒンドゥー文化の復興を目指す運動が起こっている。日本も対岸の火事ではない、グローバルだのダイバーシティだので、固有の民族性が危機に瀕している、ハロウィンのバカ騒ぎSNSのバイトテロなど本来の日本人の気質とは相容れないものだ。武漢肺炎の脅威でマスクが不足する中で、それを買い占め高額転売する行いに、反発するのも皆が困ってる時に得をしようとする行為が、卑しく汚らわしいと感じる神道の精神からだ、その一方で需給経済の原則に照らした賢いビジネスだとする声もある



 

 

「 善きをとり 悪しきを捨てて 外(と)つ国に

劣らぬ国と なすよしもがな 」 明治天皇御製

 

 

 この言葉を噛みしみて、日本人が日本人としてあり続けるために、祖先祖霊の魂を大切に敬って欲しいと切に願う。

 

 


* 達人の究極の境地 彼我の無い無窮の世界 別項名人伝参照

 

* Rashtriya Swayamsevak Sangh   ヒンドゥー民族の復興を目指すインド人民党ジャン・サング(大衆連盟)党 Bharatiya Jana Sangh が前身、Bharatiya Janata Party の支援団体


 

 

 

 


・ 後記

 

 タイミャンマーの小学校では、授業で瞑想の時間がある。日本でも行えないものか・・ 日本ではじっとしているのが苦手な子が、年々増えているように思う。多動性障害というのか、授業が始まっても騒がしく動き回る子供が、教師を困らせている

 

 ヴィパサナでは、「忍耐が涅槃へ導く」とされる。今回チャンミーでも、足が痛くなっても組み換えたり、手や首を動かしたりせずに十分忍耐を持って観察すべしと教えられた。「我慢忍耐努力」が瞑想成就の重要な鍵なのである。子供のうちからこのような経験をすることは、脳の発達にもよいし、将来に渡り人格形成にも役立つことだろう

 

 今の日本の教育や社会風潮は、自由や個性の尊重に偏するあまり、耐える力があまりにも衰えているように思う。世の中はまさに、「角を矯めて牛を殺す」状態で、じっと動かずに座らせるだけで虐待とされる。保守を排撃する政治工作で、忍耐は昭和の根性論、人格を否定する悪いものと印象操作されている。果たして本当にそうなのか・・ 耐えることを求めた仏陀の教えが、人間性を損なうものなのか・・ 忍耐にもいろいろあるのにそれを全否定する今の風潮には違和感しかない。我慢の中にも人間力を鍛える人格を向上させる " 正しい忍耐 " もあることを区別して認識するべきと思うのだが .....  。