" BODYWORK-YUJ " は3つのパートで構成され、チャクラヨガ、綜合武術 < 神流武芸 >、そしてアジアントリートメント< 指圧整体 >・・そのどれもが INNERWORK を主幹としています
基本のプログ ラムは背骨のワーク、" プライマリーコントロール " です。人間も含め脊椎動物の動きの根幹をなすのは背骨の ムーブメント、前後の波、左右の波、旋転の波の3種のウェーブから生物の原初の動きを内発していきます
チャクラヨガの前段階 ストレッチ主体の一般ヨガ
Previous stage of Chakra Yoga 2007
What's Primary Control ?
スパインウェーブとチャクラワークで構成され、ここから<エナジーダンス>が生まれます。それは意念による規則的な内動から始め、進化すれば無作為にワークされます
瞑想の精神活動と融合されたワークは外静状態における一種の内動です。それは精神と身体と呼吸法を結び付ける ` YUJ ` そのものです
◎ スパインウェーブ Spine Wave
1、前後の波の働き 駆けるチーター泳ぐイルカ・・背骨が伸縮しながら前後に波うち全身を推進させています。人間を含め脊椎動物のパワーの源泉となるワークです。ヨガの前後屈や剣術の斬撃にはこのワークが内包されています
2、左右の波の働き 魚や蛇などは左右に身体をくねらせながら強い推進力をつけています。ヨガの側屈や、意拳神亀出水などに内包されています
3、旋転の波 ~ 竜巻渦潮のエナジー ~ スパイラルパワー 前後左右のウェーブと回転が融合した自然の中で最も強いエネルギーを生み出すムーブメントです。捻じり系のポーズ及び形意横拳や入り身回転投げなどに内包されています
◎ チャクラワーク Chakras Work
心の働き、マインドパワーから導かれるチャクラのムーブメントです。観念的に捉えられてるチャクラを具体的にワークさせる訓練で前後左右旋転し、スパインウェーブとも連結していきます
What's Energy Dance ?
背骨のムーブメントからアサナへと連動する、チャクラを揺り動かし、エナジーが満ち溢れ全身にフローされる・・身体の奥底からムーブメントが湧き出し、自発的なダンスが生まれる。
無定形に身体は前後上下左右にうねり螺旋を描く、細胞一つ一つが拡がりまた縮むかのように・・水で組成される肉体の循環性を高め、全身のダイナミックな動きから、微細なマイクロムーブメント(極端に小さい動き)まで、パターン化されていない動きの集合が神経学的に成長し、共鳴する。
ゆっくりと波立つ波動は組織に浸透し、境界線をやわらかくし、感覚を増幅させる。波動は、時間、空間、周囲の状況によって縛られることなく宇宙自然の大気と呼応する
エナジーダンスでアサナからも解放されます。自然で伸びやかな動きは本当の意味で " 身体の奥底からウ~ンと伸ばしていく " ことに他なりません。筋肉腱をポーズで伸ばすことがヨガなのでしょうか?
古代のヨギが自分を開放し自然と一体となり神羅万象と繫がることを目指し、修行していた YOGA<YUJ> がアサナ(ポーズ)にはめ込んでいくようなものであろうはずがありません。チャクラヨガはその源流 ' YUJ ' を求め、既存の窮屈な概念を超越していくヨガに他なりません
『 有 形 有 意 皆 幻
意 到 無 心 始 見 奇 』
意拳 / 大成拳師祖 王薌齋
★ その向かう先には・・ SAMADHI ☆ MOKSHA へ ...
ヨーガや武道など諸芸の奥旨は何処に?「只求神意足」とは神性の意識へ達することを意味し、我欲我執の迷妄から離れ、自我(エゴ)を超越し、真実の自己に邂逅することに他なりません。それは至芸の目指すところであり、人間本来の清明の恒体に復することであり、SAMADHI ☆ MOKSHA へ至る道筋なのです。
神性の意識は全ての人に内在しますが、ニセモノの自分つまり<エゴ>が常に思考のバリヤーを張り近づけないようにしています。過去や未来の思考(疑問、恐れ、憤慨、批判、心配、妄想、思索・・)を次々に生み出しエゴの栄養にしています。古来の聖賢たちはこの思考の幻想活動を止めるため<止滅>という方法を生み出しました

それは内面へ意識を向けるという方法で 集中 ➡ 想念 ➡ 瞑想 という三つの階梯があります。プラナヤーマ(調息)は内面への集中、意拳椿功やチャクラ瞑想などイメージを用いるものは想念、そして無想の境地<瞑想>は一つその先にあります
瞑想は絶対なる自由で何ら制御の及ぶものではなく、自分が瞑想をしているという感覚からも時間からもリリース<解脱>されたものです。想念は鮮烈に今にある自分に復することで究極に至れば、神我一如つまりSAMADHI / MOKSHA へ達することもできます
古来武芸の練磨で「見神悟道」の境地に至ることは稀にあり、近代においても王薌齋や植芝盛平はその域に達したのだろうと思われます
そしてもちろんヨーガの奥旨も<解脱> に他ならずそのためにはこの内面へ意識を向ける真我の探求という階梯を歩まねばなりません。「不求形骸似」外側の形(アサナ)に執着するヨガよりも、内的凝念を主体とするヨガがよりその方向に近づきます
「 天賦の神性を経験するためには、視野を内側に向け、心を静めねばならない。神(真我)を経験するためには、身体への執着を捨てなければならない 」
至芸の究極とは技芸の練達を更に超えるものに如かず、有形から有形無形へ、さらに無執着非思量<無為自然>の境地へ達することにあります。*「名人伝」の究極の弓の名手となった紀昌の晩年の逸話がそれを物語っています