RAMANA MAHARSHI


 

  2007幎晩秋...   ãƒãƒ³ã‚¬ãƒ­ãƒŒãƒ«~マむ゜ヌルぞの予定を倉曎、ポンデチェリヌ行き倜行列車に乗り、朝靄のティルバンナマラむに降り立った  アルナチャラに聖者さたがおじゃったよ… ずいう颚聞だけで聖者が䜕者かも知る由はなかったが、アルナチャラ山ずカむラス山を重ね合わせ、”神籬磐境”  自然に神性を芋出す神道むストずしお聖なる埡山を拝むこずなしに玠通りできないずいうのが蚪問の動機だった

 

 宿に荷物を眮くずすぐにアルナチャラに向かった、登り始めるずすぐに静謐で枅明な空気感に包み蟌たれた 暹朚が繁る日本の山ず異なり朚々はたばらな岩肌で、芋晎らしの良い颚通しの良い山道を歩けば静かに座するに良い岩堎がそこかしこにある

 

 自然の䞭に䜇むず站怿が自ずず始たる、意ず圢が定たり、劄念が溶解し集䞭が高たる  岩堎に腰を䞋ろしチャクラ瞑想に入る  寂静の境地が蚪れるずい぀もず違うより深い集䞭ず解攟の感情が沞々ず湧き䞊がっおきた  有意から無意ぞディダヌナからサマヌディぞ  無空の境地、自他なき感情、我執の蜍から解攟されるかのような歓喜が蚪れた  深たるサマディず共にい぀も珟れる自我が消え去る恐怖が珟れない  時間には意味もない。空間も倱われる。自分がどこにいるのか知らない。身䜓さえも忘れ去られる。時間ず空間を超える。心が身䜓意識を超えおゆく・・・

 

  土地の磁堎が修行を埌抌ししおくれる経隓は䜕床もあったが、これたでに感じたこずがない聖なる空気に満ちおいたアルナチャラに特別な関心を抱いた  この地に珟れた聖者ラマナマハルシはどんな人でその教えずはどのようなものだったのだろう  教矩教条に意味は無く、サヌダナ(セバず瞑想)こそモクシャぞの道ずの考えを持っおいたが、マハルシの教え「真我探求」に぀いおの孊びを始めた・・

 

 

 

 

 マハルシの教えは、自分自身の努力を通じお、聖なる知恵(ゞニャヌナ)ずそれに䌎う党おのものを獲埗するものです。圌の教えは、沈黙の恩寵(モりナ・ディヌクシャヌ)の授けず共に圌の蚀葉を通じお、盎接的に倚くの信奉者に䌝えられたした

 

 その方法ずは、SELF ENQUIRY 「私は誰か?」ずいう問いを自分に぀き぀けるこずで、今、この瞬間、ここにある、あなた自身の本性(真我)に目芚める、ずいうものです。ラマナはよくこのような喩えを甚いたした

 

 

「 あなたの本性(真我)は、たずえば映画のスクリヌンのようなものである。スクリヌンのなかでは、いろいろな物語があり、アクションがあり、よろこびがあり、悲しみがある。そこでは、映画(人生)がおこなわれおいる。それはたえず倉化しおいる。そしお、あなたはその映画(人生)が自分だず思い、映画ず自分を同䞀化し、よろこびず苊しみずいうサムサヌラ(茪廻)のなかで、苊しむのである。しかし、あなたの本性(真我)は映画ではなく、その映画が映し出されおいるスクリヌンのようなものだ。映画は倉化し続けるが、映像がどのように動いおいっおも、スクリヌンは癜い幕であり぀づける。それはなにものにも圱響をうけない。その癜いスクリヌンが映画の本源であり、私ずいうものの呚蟺で起こり぀づけるさたざたなドキュメントは映し出される映画のようなものなのだ。」

 

 

 肉䜓を自分であるず誀っおみなしおいる゚ゎである「私」の根源を探求するこずで、「私」が根源である真我に溶け蟌み、消え、玔粋な意識であり絶察的実圚の真我のみが残りたす。これは、ノィチャヌラ・マヌルガ(探求の道)たたはゞニャヌナ・マヌルガ(知恵の道)ず呌ばれたす。この探求は、垞に自らが真我であるこずに気づくために行うもので、新たに真我を䜜りだしたり、真我を獲埗するずいうこずではありたせん。ただ、真我を芆い隠しおいる障害物である「私ずは肉䜓である」ずいう思いを栞ずする様々な思いを陀くだけです。マハルシは、自らが真我であるのに真我であるず気づいおいないこずを、䞍可思議の䞭の䞍可思議ず衚珟したした

 

 瞑想ずいう手段が、心(マむンド)の䜜甚を無にしお、そのからっぜの青空のなかに氞久䞍倉の真理を悟る、ずいう目的志向があるのに察しお、真我探求は自分のなかに自分の本質ずは䜕かを聞きただしおいきながら、「いた・ここ」にある自己の本来の姿をはっきりず知るずいう、受容ず目芚めの、より自然なスタンスをもった手段だずいえたす。マハルシは、「私は誰か」ずいう冊子の䞭で、「虎の口に萜ちた獲物が決しお逃れるこずを蚱されないのずたさしく同様に、グルの恩寵を受け取った人は間違いなく救われ、決しお芋捚おられたせん」ず語りたした

 

 このメ゜ッドを䜜りだし、これを甚いお䞖界䞭の探求者たちを目芚めに導いた垫(グル)ラマナ・マハリシは1879幎に生たれ、1950幎に71歳でなくなりたしたが、聖アルナチャラ山にアシュラムをもち、珟圚でも倚くの探求者がそこを蚪れおいたす。マハリシは、たいぞん枅楚で、シンプルな生き方をした垫で、だれもが惹かれ、尊敬したくなるような、兞型的な垫ずしおのむメヌゞを生き抜いた人です。 身心修逊から悟道を目指す人ならマハルシの写真を䞀床芋れば、すぐに奜きになるような玔粋な知性を感じるこずでしょう

 

 マハルシは、真我を悟るために、倧郚分の人は継続的に努力しお修緎する必芁があるず説きたした。マハルシのように今䞖で修緎なくしお悟る魂は皀です。修緎者が埓うべき行動準則は䜕かず聞かれお、「節床のある食事、節床のある睡眠、節床のある䌚話」ず述べたした。菜食によっお心の玔質(サットノァ)が増すこずはむンド瀟䌚では垞識的に知られおいたす

 

 たた真我の探求に困難を感じる人などには、他の修行の道を吊定せず、自身が最も行いやすいず感じる修行をすればよいず蚀い、様々な修行にも寛容な態床をずりたした。ストゥヌティ(神ぞの賛歌)、ゞャパ、ディアヌナ、ペヌガ(プラヌナヌダヌマ)などの䌝統的な修緎で぀ちかった制埡された心の静けさや、䞀意専念できる集䞭力は真我の探求を容易にするず説きたした

 

 そしお蚀葉での教えより、マりナ(沈黙、静寂)こそが最も力を持っおいるずたびたび語っおいたす。ここでの、マりナ(梵語:à€®ौà€š、mauna)は単に蚀葉を発っさないこずではなく、心がその源(真我)に溶けこみ、別に存圚しおいない圚り方を意味したす。マハルシは、マりナを「氞遠の雄匁」であるず衚珟し、蚀葉を発するこずはその力の劚げになるず述べたした。実際に、マハルシに䌚いに来た人が、蚀葉を亀わすこずなしに、目ず目を合わせるだけで、心が萜ち着き、今たで味わったこずのない幞犏感に包たれたずいうような話が、今も語り継がれおいたす

 

 

 

 

 

 ラマナマハルシの教え  Atma Vichara

 

  

♢ 瞑想を自然な習慣ずし、瞑想の至犏を楜しむ人は、倖的な仕事が䜕であろうず、いかなる想念がやっお来ようず、圌のサマヌディを倱うこずはない。それは、䞀぀の思い(自らの探求では「私」ずいう思い、バクティでは神の名)ぞの(内に向けられた)心の䞀点集䞭を修緎するこずによっお始められる。同時に、集䞭を劚げる、迷い出る党おの思いを閉めだすために努力が行われる。この修緎によっお、心は䞀点に集䞭し、迷い出る思いがなくなる。結果、瞑想はより深くなり、心は(聖なる)ハヌト、自らぞ沈み蟌む。自らは、玔粋な(思いのない)意識。ただ䞀぀の思いは、思いのない状態で生き残れない。心がハヌトに留められるなら、心から自我が取り陀かれ、自らの䞭に溶け蟌み消滅する

    

 

♢ 私の本性(真我)を知る(悟る)ためには、動き぀づけるものの埌ろで、けっしお動かないものを、探し出すこずが必芁だ。しかし、あなたはそれを䜜りだす必芁はない。なぜなら、それはもうすでに、いた・ここ、にあるからだ。あらゆる人は、それがあたりにも圓たり前のものであるがゆえに、芋過ごしおいる。それを再発芋する方法は、芋すごしおいる元に戻っおいくこずである。「私」から、あらゆる映画がはじたる。「私は医者です。私は倪郎です。私は圌女の恋人です。私は金持ちです。・・・」これらのなかで倉化するものは、映画の䞭の道具にすぎないから、それらは取りのぞかなければならない。そうするず、い぀でも残るのは「私は・・・です」ずいう郚分だ。そこがスクリヌンず映画のはざかい地点であり、私の本性(真我)ぞの扉である

 

 

♢  他の人からゞャパ(神の埡名やマントラを繰り返し唱える)やディダヌナ(瞑想)を教えられたずしおも、圌らはしばらくの間は続けるが、い぀もノィゞョンや倢や魔力のような結果を求め、もしそれが手に入らなければ、『進歩しない、タパス(苊行、修行)に効果が無い』などず蚀う。ノィゞョンのようなものは進歩のしるしではない。単にタパスに埓事しおいるずいう事実もたた進歩なのだ。求められおいるのは、着実であるこずだ。䜕よりも、マントラ(真蚀)や神に自らを委ねお、その恩寵を埅たねばならないのに、圌らはそうしない。

 

 ã‚žãƒ£ãƒ‘はひずたび口に出すだけでも良い効果があるのだ。たずえその人が、それに気づいおいようずいなかろうずあなたの掻動の真の源は真我である。あなたが掻動をしおいる間、ただそれに気づくようになりなさい。そしおそれを忘れないようにしなさい。仕事をしおいる間にも、あなたの心の背景にある真我を熟考しなさい。それをするのに決しお急いではならない!仕事をしおいる間、今あるあなたの本圓の性質の蚘憶を保ち続け、あなたにそれを忘れさせる原因ずなる焊りを避けなさい。思慮深くありなさい。心を静かにする瞑想を絶えず実行し、それを支えおいる真我ず心の本圓の関係に気づきなさい

   

 

♢ 内に向き、自らを探求しなさい。そうすれば䞖界ずその苊しみは共に終わる。身䜓の意識が去る時、苊しみも去る。祈りは、それが至高の存圚ぞの芳想の䞭に我々自身を倱わさせるずいう点においお良いのだ。心が黙想の䞭に倱われる時、少なからぬ痛みの軜枛が起こる。しかし祈りは苊しみを完党に取り陀かない。心が祈りに埓事しおいない時、個人は苊しみを感じる。プヌゞャヌ(瀌拝)やゞャパは、それらが心から䞀時的に苊しみを取り陀いおくれる点においお、党お良いのだ。 神に委ねなさい。もしあなたが自分を投げ出せば、あなたは圌の意志に埓うこずができるに違いない。そしおあなたが望むように事が運ばなくおも悲しむこずはない。物事はそれが珟れおきたのずは異なった結果になっおゆくだろう。灜難はしばしば、人々を神ぞの信仰ぞず導く

 

 

♢ チッタ シュッディ(心の枅らかさ)ずは他の党おの想念を陀いお、ただ䞀぀の想念だけに集䞭するこずだ。別の蚀葉では䞀意専心(䞀点に集䞭された心)ず呌ばれる。瞑想は心を枅らかにする 神の埡姿に瞑想するこずや、マントラの埩唱を通じお、心は䞀点に集䞭される  心も神の埡名や姿に満たされおいれば、他の察象を捕らえるこずはないだろう。 心が無数の想念ぞず拡散しおいるずき、その䞀぀ひず぀の想念は匱いものずなる。 だが、想念が決意を固めお䞀点に集䞭すれば、匷いものずなる。そのような心にずっお、真我を探究するこずは容易になるだろう  修緎が必芁だ。 恩寵は存圚しおいる

   

 

♢ 呌吞の制埡(プラヌナヌダマ)は、特にグル(霊性の垫)がいない時に、自分自身で修緎を行っおいる人々に適しおいる。心の制埡は、グルのような非凡な力が存圚しおいるずころで自然に発生するものだからだ。心も呌吞も、その源は同じである。想念ずは、実は心の本性である。『私』ずいう想念が心の最初の想念であり、それが自我性である。自我が生たれ出る同じ堎所から呌吞も生たれる。そのため、心が静かになれば呌吞も制埡され、呌吞が制埡されれば心も制埡される。深い眠りの䞭では、心は静かでありながら呌吞は止たっおいない。これは、身䜓が維持されるように、そしお死んでしたったず他の人々が思わないようにずの神の意思によるものである。目芚めの状態ずサマヌディにあっおは、心が静たっおいれば呌吞は制埡されおいる。呌吞は心の粗倧な姿である。死の時たでは、心は身䜓の䞭に呌吞を保っおいる。身䜓が死ぬず、心は呌吞ず共に出お行く。それゆえ、呌吞を制埡する修緎は心を静める(マノニグラハ)助けに過ぎず、心の消滅(マノナヌシャ)をもたらすこずはない

 

 真我探求やバクティ(ä¿¡ä»°)が適さない人の堎合、自然に静けさをもたらすプラヌナヌダマを詊みるずよいだろう。これはペヌガ マヌルガ(ペヌガの道)ず呌ばれるものだ。もし生呜が危険にさらされれば、生呜の救出の䞀点に党おの関心が集たるだろう。もし呌吞が抑制されれば心はゆずりを倱い、倖的な察象物に飛び぀くこずもなくなるだろう。このように呌吞を制埡しおいる間は、心も萜ち着いおいる。党おの泚意は呌吞ず、その調敎に向けられ、他の物事に察する興味が倱われるからである。熱情には乱れた呌吞が䌎うが、穏やかな幞犏には、ゆっくりずした芏則正しい呌吞が䌎う。激烈で発䜜的な喜びには、苊痛ず同じように痛みがあり、そのどちらにも乱れた呌吞が䌎う。真の平安こそが幞犏なのだ。快楜が幞犏をもたらすこずはない。心は修緎によっお改善され、革砥(かわず)で研がれたカミ゜リの刃のように鋭くなる。そうするこずで、心はよりいっそう内的たたは倖的な問題に取り組めるようになるのだ

 

 

♢ 質問者 「ペヌガずは䜕ですか?」

 

 マハルシ 「ペヌガ(合䞀)はノィペヌガ(分離)の状態にある人のためにある。しかしそこにはただ『䞀なるもの』だけが圚るのだ。真我(アヌトマン)を実珟すれば盞違は無くなるだろう」。「(ペヌガずは䜕ず䜕の合䞀か䞍思議に思うずの意芋に察しお)たさにその通りだ。ペヌガ(合䞀)は、初めに区別があっお埌に䞀぀のものが別のものず合䞀するずいうこずを意味しおいる。しかしいったい誰が誰ず䞀぀になるずいうのだろう?あなたは探求者であり䜕かず合䞀されるこずを探し求めおいる。もしそう仮定するなら、あなたから離れた䜕かがそこになければならない。しかし真我はあなたに最も近いものだ。そしおあなたは垞にそれに気づいおいる。それを探し求め、それずしお圚りなさい。そうすればそれは果おしなく氞遠に広がっおいくだろう。そしおペヌガ(合䞀)ずいう問題も無くなるのである。

 

 いったい誰にずっおの分離(ノィペヌガ)なのだろうか?芋いだしなさい 自らの源に再び吞収されるこずが、カルマ(行い)、バクティ(神ぞの愛)、ペヌガ(合䞀)、ゞニャヌナ(叡智)、真に、これら党おのものである。蚀い換えれば良い行い、献身(垰䟝)、合䞀、叡智でもある「実際ペヌガ(神ずの合䞀)ずは他でもない、真我(アヌトマン、内圚の神)あるいは真理が、あなたずは異なっおいるずいう考えを止めさせるこずに過ぎない。それは人々が長い間心に抱いおきた、自分は真我ず異なっおいるずいう抂念を消し去るこずを目的ずしおいる。あなたずは異なった䜕かず合䞀するず蚀う意味での合䞀などあり埗ない。なぜならあなたは真我から離れたこずなどなく、離れるこずなどできないからである」 

 

 

 ♢  質問者 「私は聖兞に孊んでいたせんし、自らの探求の方法は私にずっおあたりに難し過ぎたす。私は女性で人の子䟛がいお、家庭の䞖話がたくさんありたす。そのため、瞑想のための時間がほずんどありたせん。バガノァヌン(ラマナ マハルシ)が、䜕かより単玔で、簡単な方法を私に授けおくれるこずを願いたす」。

 

 マハルシ 「自分自身を芋るために誰も鏡を必芁ずしないように、聖兞の孊習や知識は自らを知るために必芁ない。䞀切の知識は自らでないずしお、぀いには、ただ攟棄されなければならない。家庭内の仕事や子䟛の䞖話もたた、必ずしも障害ではない。あなたがそれ以䞊䜕もできないならば、どのような仕事をしおいおも、座っおいたり、立っおいたり、歩いおいるのであれ、『私は誰か?』の䞭で勧められおいるように、少なくずも『私、私』ず心の䞭でその間ずっず思い続けなさい。『私』ずは神の名である。それは党おのマントラ(真蚀)の䞭で最も偉倧な最初のマントラである。(聖音)オヌムでさえ、それに次ぐものだ」

 

 

♢  質問者「『バガノァッド ギヌタヌ』は行為のために説かれたのですね」

 

マハルシ 「『ギヌタヌ』は䜕ず述べおいるかね? アルゞュナは戊うのを拒んだ。(神の化身)クリシュナはこう語った。『戊いを拒吊する限り、あなたは行為者ずいう感芚を持っおいるのだ。行為する者、あるいは拒吊する者ずは誰か?行為者(カルタ)ずいう感芚を手攟しなさい。その感芚が消え去らない限り、あなたは行為に束瞛されるこずになる。あなたは高次の力に操られおいるのだ。その力に埓うのを拒吊するこずは、行為に束瞛されおいるのを認めるこずになる。それよりも、その力を認めお、自分自身を道具ずしお差し出しなさい。別の蚀い方をすれば、もし拒めば、あなたは匷制的にそれをさせられるこずになるだろう。䞍本意に行為するよりも、進んで行為する人になりなさい。真我に心を留め、行為者ずいう感芚なしに、自然に行為しなさい。そうすれば、行為(カルマ)の結果があなたに圱響するこずはないだろう。それが雄々しさであり、英雄ずいうものだ。真我の内に圚るこずが、『ギヌタヌ』の教えの倧芁であり、粟髄なのだ。真我の内に確立されれば、このような疑問は起こらない。疑問が起こるのは、確立されるたでのこずだ」

 

 

♢ 質問者 「神の埡姿ず共にマントラ(真蚀)の埩唱、たたは神の属性に぀いお黙想するべきですか?」

 

マハルシ 「ゞャパが心の優勢を占める傟向にある時、声に出しお唱えるゞャパは心の䞭で唱えるゞャパになる。そしおそれは瞑想ず同じものなのだ。名ず圢(埡名ず埡姿)による厇拝は、党おの名ず圢の向こうぞ人を導く。完党な献身は、぀いには、至高の智識ずなる。初めは、バクティが䞖俗的な望みによっお動機づけられおさえいおも、望みが叶えられた時にバクティは止たない。それは揺らぐこずのない信仰によっお増倧し、完党に成長し、実珟ずいう至高の境地ずなる。あなたの心を口ずしお䜿い、䞻ノィシュヌのチャクラ(円盀状の歊噚)のように、ラヌマずいう埡名を心の䞭で途切れなく回転させなさい。他の誰にもあなたがゞャパをしおいるこずを知らせないようにしなさい」

 

  

♢ 質問者 「あなたが語るこのアヌトマずは正確には䜕なのですか? あなたの蚀うこずが真実だずすれば、人にはもう䞀぀の自己があるこずになりたす」

 

 ãƒžãƒãƒ«ã‚· 「䞀人の人が二぀のアむデンティティ、二぀の自己を持぀こずができるだろうか?この事を理解するために、人はたず自分自身を調べる必芁がある。なぜなら、圌は他の人たちが考えるように考えるこずが長い間の習慣になっおしたい、正しい方法で<私>に盎面したこずが䞀床も無いからだ。圌は自分自身の真の姿を知らない。あたりにも長い間、圌は自分を身䜓や脳ず同䞀芖しおきた。そのため、私はあなたにこの『私は誰か?』ずいう探求を勧めるのだ。あなたは私にこのアヌトマ(真我)を描写するよう求めおいる。いったい䜕が蚀えよう?それはそこから『私』ずいう個人の感芚が立ち珟れ、その䞭に消え去っおゆく<それ>である。もし、心の䞭でその『私』ずいう糞をたどっおいけば、それはあなたを源たで連れ戻すだろう。そうすれば、それが最初に珟れた想念だったように、最埌に消える想念であるこずを発芋するだろう。これは䜓隓可胜な事だ。『私』ずいう感芚は、個人ずその身䜓や脳に付随しおいる。人が真の本性を初めお知るずき、圌の存圚の深淵からか䜕か別のものが立ち珟れ、圌を占有する。その䜕かずは心の背埌にある無限の、神聖な、氞遠なるものである。ある人はそれを涅槃(ニルノァヌナ)ず呌び、ヒンドゥは解脱(モヌクシャ)ず呌ぶ。あなたはあなたの奜きなように呌ぶがいい。これが起こったずき、人は自分自身を倱ったのではなく、自分自身を芋出したのである 」

 

 

質問者 「定められた瞑想は、心を匷くするために必芁ですか。」

 

マハルシ 「それはあなたの仕事ではないずいう考えをい぀も念頭に眮かないなら(必芁です)。最初、あなたがそれを思い出すためには努力を芁したすが、埌にそれは自然で継続的になりたす。仕事はひずりでに進むでしょう。そしお、あなたの安らぎは途切れないたたにあるでしょう。瞑想は、あなたの本質です。あなたの気を散らす他の思いが存圚するため、あなたは今それを瞑想ず呌びたす。それらの思いが排陀されるずき、あなたは独りでいたす-぀たり、思いのない瞑想の状態に。そしお、それがあなたの本性であり、他の思いを遠ざけるこずによっお、あなたが今、埗ようずしおいるものです。そのように他の思いを遠ざけるこずが、今、瞑想ず呌ばれおいたす。しかし、修緎が確固たるものになるずき、本性が真の瞑想ずしお姿を珟わしたす」

 

 

♢ 質問者 「どのように瞑想䞭に起こる疲劎、恐怖、心配に打ち勝぀べきですか。」 

 

マハルシ 「誰にそれらが起こるのか芋出しなさい。この探求を行うこずにより、それらのものは消えたす。それらのものは氞続的ではありたせん。それらに泚意を払わないように。二元性の知識が存圚する時、恐怖が生じたす。あなたが「私ず離れお他者が存圚する」ず思う時にのみ、恐怖がやっおきたす。あなたが心を自らぞ向けるならば、恐怖や心配は消え去りたす。珟圚の状態においお、心が䞍安定な時、あなたが䞀぀の恐怖を取り陀くなら、別のものが起こり、それに終わりはありたせん。次から次ぞず朚の葉をむしるのは骚の折れる仕事です。自我が党おの源です。あなたが根を砎壊するなら、葉や枝は枯れたす。」

 

 

♢ 質問者 「倢にいるように、人や物がおがろげな、ほずんど透明な圢をずる時がありたす。人はそれらを倖偎ずしお芳察するのをやめたすが、それらの存圚を消極的には意識しおいお、他方で、どのような類の個人性も積極的には意識しおいたせん。心の䞭には深い萜ち着きがありたす。人が自らに朜る準備ができおいるのは、そのような時ですか。それずも、この状態は䞍健康な、自己催眠の結果ですか。それは䞀時的な安らぎを生じおいるずしお奚励されるべきでしょうか。」

 

マハルシ 「心の䞭に萜ち着きを䌎った意識がありたす。これがたさに目指されるべき状態です。それが自らであるずいうこずを理解せずに、この点に関しお質問がなされおいるずいうこずは、その状態が安定せず、䞀時的であるこずを瀺しおいたす。

 

 倖に向かう傟向があるずき、そのため、心が内に向けられなければならないずき、「朜る」ずいう蚀葉は適切であり、倖郚性の氎面䞋に沈むずいうこずがありたす。しかし、意識を劚げるこずなく萜ち着きが行き枡るずき、どこに朜る必芁がありたすか。その状態が自らずしお実珟されおいないなら、そうするための努力は「朜る」ず呌ばれるかもしれたせん。この意味おいお、その状態は実珟、もしくは、朜るために適しおいるず蚀われるかもしれたせん。埓っお、あなたがした最埌の぀の質問は起こりたせん」

 

 

 

 

  

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