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資料編
♦ 日本名に変更を希望する朝鮮人が用いた改名マニュアル
内鮮一体の時代、韓国(朝鮮)姓を日本名に変える創氏改名のマニュアルがあった。もちろん強制ではなかったのだが、朝鮮人たちの強い要望でこのマニュアルが作成され、これを参考に改名を希望する人たちが日本名に変更した。(日本の漢字は状況によって、組み合わせによって読み方がまったく変わることもあり、曖昧なのは読み方が違うかもしれない)
朝鮮には戸籍制度がなかったので、総督府によって戸籍の登録が始まった際に、日本風の苗字に改名したいという朝鮮人からの強い要望があった。もちろんこれまでどおりの朝鮮の姓(金だの朴だの)を氏として届けでることは何の支障もなく、届出期間内に申し出ないとそのまま元朝鮮の姓で登録される規則だった。常用漢字・人名用漢字でない漢字は帰化する際の苗字には使用できない。よく苗字に含まれる漢字で常用外の旧字(澤・濱・齋・邉・邊とか)を「本名の」姓に含んでる方は根っからの日本人である確率は高いが、戸籍ロンダリング背乗りがあればこの限りではない
朝鮮名 ➡ 日本名 見本一覧
1.キム(金) ➡ 金海、金岡、金田、金本、 金城、慶金、金山、金江、金谷、金澤、金川、金浦、金原、金村、金井、金淸、金子、金島、金松、金林、金光、光山、岡田
2.イ(李) ➡ 宮本、國本、朝本、松山、岩村、牧山、牛峰、眞城、平川、靑木、丹山、山本、李村、永川、
3.パク(朴) ➡ 新井、天本、村井、朴原、朴田、朴澤、松川、竹山、木下、木本、木山、木村
4.チェ(崔) ➡ 高山、山佳、佳山、山本、山江、大山、和山、佐井
5.ジョン(鄭) ➡ 智山、爲川、迎田、大川、河東、三城、三山、三浦
6.カン(姜) ➡ 神農、神本、晉山
7.チョ(趙) ➡ 豊田、白川
8.ユン(尹) ➡ 平沼、伊東
9.チャン(張) ➡ 張本、長谷、玉山
10.イム(林) ➡ 林(すでに日本にあるので創氏しないことにした)
11.ハン(韓) ➡ 淸原、西原、箕本、朝川、大原
12.シン(申) ➡ 平山、平田
13.オ(呉) ➡ 呉山、呉村、德山、三井
14.ソ(徐) ➡ 達城、大城、大川、大山、大原
15.クォン(権) ➡ 安東、権東、権藤(漢字だけ違う)
16.ファン(黄) ➡ 黄原、芳村、檜山、黄田、黄本
17.ソン(宋) ➡ 野山、壺山、松山、松原、野田、大原
18.アン(安) ➡ 安田、安本、安藤、竹安
19.リュ(柳) ➡ 柳(ほとんど創氏しない)、柳澤、柳川、柳原
20.ホン(洪) ➡ 豊山、德山、洪川、洪原
21.チョン(全) ➡ 江原、松山、松原、松田、菊山
22.コ(高)➡ 高山、高島、高子
23.ムン(文) ➡ 文岩、文平、文原(漢字だけ違う) 文明、江城
24.ソン(孫)➡ 孫(一部は創氏しない) 大村、松山、天日
25.リャン(梁)➡ 梁川、良原、南原、梁原
26.ペ(裵) ➡ 武本
27.ペク(白)➡ 白川、白原
28.チョ(曺) ➡ 昌山、夏山
29.ホ(許) ➡ 石渡、岩村
30.ナム(南)➡ 南(すでに日本にあるので創氏しないことにした)
31.シム(沈) ➡ 靑松、松本
32.ユ(劉) ➡ 玉川、河西
33.ノ(盧) ➡ 岡村、豊川、神本 河原、瑞原、上田
34.ハ(河) ➡ 河本
35.チョン(丁)➡ 茶山、丁藤 町田、武島(独島の漢字とは違う)
36.ソン(成) ➡ 成本、成田、成山
37.クヮク(郭) ➡ 西浦、牧野 岩谷、西原
38.チャ(車)➡ 轟、車田、永田
39.ク(具) ➡ 綾城、綾原、綾部
40.ウ(禹) ➡ 丹山、宇森
41.チュ(朱) ➡ 朱本、本城、寧野
42.ナ(羅) ➡ 富田、上村、松島
43.イム(任) ➡ 豊川
44.チョン(田) ➡ 田村、潭田
45.ミン(閔) ➡ 本城、岩村、岩本
46.シン(辛)➡ 重光、辛島
47.チ(池) ➡ 池田
48.チン(陳) ➡ 陳川、陳內、陳田、三山、大原
49.オム(嚴) ➡ 岩本、奈城
50.ウォン(元) ➡ 原元、原村
51.チェ(蔡) ➡ 蔡原、蔡川、平岡、平松、佐川
52.チョン(千) ➡ 千原、千田
53.パン(方) ➡ 方山
54.ヤン(楊) ➡ 清水、清原、和田、楊原、楊
55.コン(孔) ➡ 曲原、孔村、檜原、昌原
56. ヒョン(玄) ➡ 玄武、延山
57.カン(康) ➡ 康原、康田
58.ハム(咸) ➡ 成本
59.ピョン(卞) ➡ 草溪、德原
60.ノ(魯) ➡ 江村、江本、華村
61.ヨム(廉) ➡ 瑞原、梅原、石川
62.ピョン(邊) ➡ 原邊、原川
63.ヨ(呂) ➡ 宮原、宮本、呂井
64.チュ(秋) ➡ 秋山
65.ト(都) ➡ 都田、都本、都川、都
66.シン(愼) ➡ 眞山、眞原
67.ソク(石) ➡ 石原、石川、石村
68.ソ(蘇) ➡ 草禾、伊蘇、和田、秋田
69.ソル(薛) ➡ 玉川、松山、弘本、大山
70.ソン(宣) ➡ 宣川、中原
71.チュ(周) ➡ 周本、吉田、德原
72.キル(吉) ➡ 吉本、寺再
73.マ(馬) ➡ 木川、有馬、馬野、馬場
74.ヨン(延) ➡ 延原、中山、山本
75.ピョ(表) ➡ 表田、山崎、新川
76.ウィ(魏) ➡ 長本
77.ミョン(明) ➡ 明石、明川、日月
78.キ(奇) ➡ 岩崎
79.パン(房) ➡ 房原
80.パン(潘) ➡ 米田、河村
81.ワン(王) ➡ 王本、松田 松城、大原
82.キム(琴) ➡ 琴川、金田、今田
83.オク(玉) ➡ 大原
84.ユク(陸) ➡ 管城
85.イン(印) ➡ 印島、高木、高村
86.メン(孟) ➡ 新原、松岡、松原
87.チェ(諸) ➡ 穎川
88.タク(卓) ➡ 卓山、光山
89.シン(秦) ➡ 秦、南原、松原 大倉、豊田
90.ナムグン(南宮) ➡ 南宮
91.チャン(蔣) ➡ 牙山、松山、國元
92.モ(牟) ➡ 牟田、谷本
93.クク(鞠) ➡ 靑山、鞠
94.オ(魚) ➡ 魚川、魚西 西川、魚沼
95.ヨ(余) ➡ 宜川、富本
96.ウン(殷) ➡ 幸州、松江、江本
97.ピョン(片) ➡ 片山
98.ヨン(龍) ➡ 龍川、天河
99.イェ(芮) ➡ 草内、廣田
100.ク(丘) ➡ 丘(そのまま)
汎用される在日の名前: 青木・青山・秋本・秋山・新井・岩本・飯田・伊藤・池田・ 大川・大山・ 岡田・岡本・金田・金村・金本・金山・金子・加藤・木村・木下・小林・佐藤・佐々木・清水・田中・高橋・高山・徳山・徳永・豊田・中村・中山・ 橋本・原田・林・東・平田・平山・福田・福永・藤原・藤井・星山・前田・松本・松田・松原・南・水原・森本・安田・山田・山本・吉田・和田・渡辺
♦ 朝鮮通信使の真実
朝鮮王朝は豊臣秀吉による1592~1593年の文禄の役、1597~1598年の慶長の役の後に、日本との国交を断絶したが、1607年(宣祖40年)に再開されると同時に朝鮮通信使が日本を訪問するようになった。当時の日本は徳川家康(1542~1616年)が権力を握っていた時期で、幕府将軍の治世を確立し、朝鮮と善隣関係を維持する次元から朝鮮通信使の訪日を推進するようになった。朝鮮通信使は一回に訪日する都度に400~500人と大規模なものだった。
通信使代表の地位は正使として、正三品(※訳者注:日本の律令制官位における正三位に相当)級だった。現在で例えれば、1級公務員(※訳者注:韓国の公務員制度で次官級もしくは地方自治体の副首長程度に相当)あたりに当たる。
朝鮮通信使は一回訪日するのに100万両程の莫大な費用が支出された。費用は全額、日本の幕府が負担した。通信使の一行が500人程の場合、一人当たり2000両と言う計算となる。当時の日本に居住していた外国人の中で最高の待遇を受けていたのは、イタリア人宣教師「シドッチ(Sidocci/1668~1714年)」という人だったが、彼の1年間の生活費が25両水準だった。(※ シドッチは1708年に鎖国下の日本に潜入して宣教をしようとした人物。捕らえられて江戸に護送され、新井白石との宗教哲学を巡る論争の末、切支丹屋敷、キリスト教信者・宣教師専用の収容施設に幽閉され殉教)滞在期間に関係なく比較すれば、「外人1人の1年間の生活費25両 vs. 朝鮮通信使1人の1回の訪日費用2000両」となる。朝鮮通信使が外人に比べ80倍にもなる超豪華接待を受けていた
朝鮮人が整形を知らなかった江戸時代の朝鮮通信使が日本を見て書いた日東壮遊歌にこのような描写がある。(名古屋にて)・人々の容姿の優れていることも 沿路随一である。わけても女人が 皆とびぬけて美しい。明星のような瞳、 朱砂の唇、白玉の歯、 蛾の眉、茅花(つばな)の手、蝉の額、氷を刻んだようであり 雪でしつらえたようでもある。趙飛燕や楊太真が万古より美女と誉れ高いが、この地で見れば色を失うのは必定。越女が天下一というが、それもまこととは思えぬほどである。 ・(復路にて)女人の眉目の麗しさ、倭国第一といえる、若い名武軍官らは、道の左右で見物している美人を、一人も見落とすまいと、あっちきょろきょろこっちきょろきょろ、 頭を振るのに忙しい、まるで幼児のいやいやを見ているようであった。
朝鮮通信使は1811年(純祖11年)まで合計12回実施された。朝鮮通信使の移動コースは、漢城(ソウル)から出発して東萊(釜山)を経て、対馬島、下関、大阪、京都、名古屋などを経由し、江戸(東京)に到着する旅程だった。朝鮮通信使の訪日した時期と規模などは以下の通りだった。
第1回目:1607年(宣祖40年)、467人、日本との国交回復記念の次元
第2回目:1617年(光海君9年)、428人
第3回目:1624年(仁祖2年)、300人、徳川家光の就任祝い
第4回目:1636年(仁祖14年)、475人
第5回目:1643年(仁祖21年)、462人、徳川家綱の誕生祝い
第6回目:1655年(孝宗6年)、488人、徳川家綱の就任祝い
第7回目:1682年(肅宗8年)、475人、徳川綱吉の就任祝い
第8回目:1711年(肅宗37年)、500人、徳川家宣の就任祝い
第9回目:1719年(肅宗45年)、479人、徳川吉宗の就任祝い
第10回目:1748年(英祖24年)、475人、徳川家重の就任祝い
第11回目:1763年(英祖39年)、472人、徳川家治の就任祝い
第12回目:1811年(純祖11年)、336人、徳川家斉の就任祝い
朝鮮通信使一行は日本に到着してその発展した姿と文物に接するようになった。そして衝撃を受けた。このような内容は朝鮮通信使の記録にそのまま残っている。朝鮮通信使が日本側に朝鮮の先進文物を伝えてやったという風な話は100%嘘だ。最後の12回目の朝鮮通信使は日本本土を踏めずに対馬からそのまま朝鮮に帰って来た。莫大な経費をかけつつ、朝鮮通信使を迎えてきたのだが、日本の幕府はその間に朝鮮から学んだものは殆ど無かった。通信使一行が常に性理学と朱子学を議論に挙げると同時に、威張る姿だけ見なければならなかった日本は、この行事の持続か否かについて苦悩に陥るようになった。当時の日本の幕府は改革と開放政策を通じ、世界最新の情報をほぼリアルタイム水準で把握している状況だった。従って相変わらず朱子学、性理学の枠組みから一寸も抜け出せずにいる朝鮮の通信使は次第に利用価値が無くなっていくようになった。故に結局、1811年の12回目には初めから江戸(東京)まで来ることも無く、通信使一行を対馬で適当に応接した後、そのまま送り返したのだ。これを「易地聘礼」という。(注:「易地」とは土地・場所を変えるという意味で江戸から対馬に実施場所を変え、「聘礼」とは国書のやり取り・伝達の意味で、天明の大飢饉などの連年の困難を口実に朝鮮通信使とその関連行事を対馬で実施するようになった事件のこと)そしてこれをもって終了となった。
幕府は長崎の沖に「出島」を造成した。1634年から1636年までの約2年間の工事を経て、扇型の格好で造成された人工島でのみ、オランダ東インド会社(オランダ、英国、フランスなどが東洋に対する貿易権行使の次元から東インドに設立した貿易会社)所属の船舶が出入りすると同時に、日本と商業行為を営めるようにした。出島は一種の貿易基地だったわけだ。1857年にオランダと更なる貿易条約を結ぶまで約200年余りの間、長崎の出島を通じて西洋の武器、技術などの先進文物と文明を分け隔て無く吸収した。日本の幕府はオランダ側に長崎の人工島の出島を提供する代わりに、オランダが全世界に存在する東インド会社支店を通じて獲得した高度な情報を、出島駐在のオランダ側責任者に報告書形式で整理させ、江戸幕府に毎年義務としてブリーフィングさせるようにしておいた。これにより、出島駐在のオランダ側責任者は全世界の東インド会社を通じて把握した最新情報を整理し、毎年江戸を訪問して、直接幕府にその内容を詳細にブリーフィングしていた。このようなブリーフィングは1857年まで合計166回に渡ってなされていた。
江戸幕府はこんな風に既に1600年代初盤から世界情勢を一つ一つ把握していた。ところが、このような水準の幕府に向かって、朝鮮通信使の一行が性理学が如何だ、朱子学が如何だという風な戯言をあれこれ語り続けたので、日本の幕府の立場では呆れていただろう。
1853年7月、米国のペリー艦隊(黒船)による日本の江戸(東京)沖での出現に日本が大きな衝撃を受けたという話も事実でない。日本は既にオランダ東インド会社を通じて米国のペリー艦隊の動向を把握しており、日本に到着する時期まで知っていた。日本が驚いたのは、ペリー艦隊の登場自体でなく、ペリー艦隊の攻撃に備えてそれなりに日本で最良の火砲など、非常に強力な武器を準備しておいて待っていたのだが、実際のペリー艦隊の武装水準を目で確認した結果、予想よりもはるかに強力だったからだ。
「朝鮮」という国名さえ、自ら決めたものではなかった。中国(明)から、「新しい王朝名を何にするのか、案を報告しろ」という命令を受け、「朝鮮」と「和寧」という二つの名称候補を中国に提出した。この中から、中国が「朝鮮」という名称を選択したのだった。 このようにして、中国から「臣下の地位」どうにか得たのが、まさに朝鮮だった。以後、朝鮮は、露骨に「小中華」を自認し、かえって自主独立国である日本に向かって、根拠のない優越感を持つようになる。「朝鮮は、難しい中国から『臣下席』を得たが、日本はまだ得ていないので、お前らは野蛮だ」という錯覚と妄想は、その時から始まったと思われる。
日本に向けた朝鮮による根拠のない優越感と虚勢の代表的な例は、1876年の朝鮮修信使一行の行動だろう。1876年(高宗13年)2月、日本と朝鮮は日朝修好条規条約(江華島条約)を締結したが、朝鮮国内では相変らず衛正斥邪(小中華および宋明理学崇拝勢力)に足をとられて、そこから少しも抜け出せないでいた。条約締結で、朝鮮が少しでも変わることと期待した日本は失望した。困った日本は、朝鮮の指導層が日本の近代化した姿を直接目で見れば、近代化に対する重要性を知るようになるだろうと思い、アイディアを出した。それが、朝鮮通信使(1607~1811、12回実施)の復活である。
名称は、日本と朝鮮間の信義を新しく修めるという意味から「修信使」にした。以前の朝鮮通信使の場合と同じように、朝鮮修信使の招聘費用は日本が全額負担することにした。第1次修信使は76人に決まった。 ところが、この76人中、約30人が風楽隊(伝統音楽の楽団)と旗手団で構成された。朝鮮修信使一行は、文明国からやって来たということを日本人に広く誇示し自慢するために、風楽隊と旗手団に固執したのだ。 当時の朝鮮の指導層は性理学と朱子学を信奉しつつ、朝鮮の小中華文明が日本よりもはるかに優秀な文明だと信じていた。当時の朝鮮にはちゃんとした船舶がなかったので、日本は朝鮮修信使一行のために日本内務省専用蒸気船「黄龍丸」を送った。朝鮮修信使一行は、1876年5月29日に釜山を出発して、下関を経て横浜に到着した。そして、横浜で蒸気機関車に乗ることになったのだが、朝鮮修信使一行はこの蒸気機関車に大きな衝撃を受けることになる。
朝鮮修信使代表の金綺秀は、『日東記遊』に、日本の蒸気機関車についてこのように記している。 「雷や稲妻のように走り、嵐のように暴れ、一時間に300~400里を走るのだが、車体は穏やかで振動は少ない。左右には、山川、草木、家屋、人物が見えるのだが、目の前を電光の如く過ぎ行くので、落ち着いて眺めることはできない。タバコ一本吸う間に、既に東京の新橋に到着していた」
日本の歴史学者、佐々木克は、このような朝鮮修信使のことを「朝鮮が派遣した修信使は、鎖国状態の朝鮮の無知がもたらした、時代錯誤的なハプニング」と評した。また、当時の日本駐在の英国の新聞記者はこのように書いた。 「伝統的な服装に身を包み、最高の威厳を示しながら行進する朝鮮修信使の行列は、まるで化石の一行だ」 朝鮮が中国の属国であったという事実は、朝鮮王の年号を見てもわかる。朝鮮を建国した李成桂は、明の太祖の年号「洪武」を使用した。例えば、朝鮮は、建国年度(1392年)を「洪武25年」という形で記録した。高宗(1852~1919)の場合、清の同治帝の年号「同治」を使用した。
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